前田青邨・日本画公募展 前田青邨記念大賞

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前田青邨画伯略歴

1885年(明治18年)1月27日岐阜県恵那郡中津川村(現在の中津川市)に,父前田常吉・母たかの次男として生まれる
本名 廉造(れんぞう)
1891年(明治24年)6歳中津川尋常高等小学校に入学
図画が得意で,算術を苦手とする生徒だった
1897年(明治30年)12歳3月,中津川尋常高等小学校卒業
1898年(明治31年)13歳母死去 上京し,叔父の営む本郷根津の下宿屋「東濃館」に寄宿する
京華中学校に入学するが,数ヶ月後に血痰が出,静岡県吉原の眼科医宅で2ヶ月ほど療養する
1899年(明治32年)14歳京華中学校を中途退学し,郷里中津川に帰郷
母校の補習科へ通学する
1901年(明治34年)16歳絵に専心する決意を固め,再び上京
従兄のつてで尾崎紅葉の紹介を得,牛込天神町の梶田半古の塾に内弟子として入る 塾頭格に二年先輩の小林古径がいた
1902年(明治35年)17歳第12回日本絵画協会・第7回日本美術院連合絵画共進会に「金子家忠」を出品,3等褒状を受ける 出品に際し,師半古から「青邨」の雅号をもらう
日本画会に入会
1903年(明治36年)18歳國學院大学の聴講生となり,古典文学を学ぶ
1910年(明治43年)25歳国画玉成会幹事となる
この頃,郷里中津川の南林寺格天井に絵を描く
1911年(明治44年)26歳11月,荻江節家元荻江露章の妹,佐橋すゑと結婚
1914年(大正 3年)29歳10月,再興日本美術院の同人に推挙される
1918年(大正 7年)33歳3月,大阪高島屋で初の個展開催
日本美術院評議員に選出される
1922年(大正11年)37歳日本美術院留学生として,西洋美術研究のため小林古径とともに約1年間渡欧し,ローマ・フィレンツェ・パリに滞在する
1930年(昭和 5年)45歳「洞窟の頼朝」で第1回朝日賞を受賞
日本美術院経営者に推挙される
1935年(昭和10年)50歳6月,帝国美術院会員に任命される
1937年(昭和12年)52歳6月,帝国芸術院会員に任命される
1944年(昭和19年)59歳7月,帝室技芸員に任命される
1945年(昭和20年)60歳郷里中津川に疎開
終戦後北鎌倉の自宅に戻る
1950年(昭和25年)65歳東京藝術大学教授となる
12月,文化財保護委員会専門審議会委員
1951年(昭和26年)66歳東京藝術大学日本画科主任教授に就任
1955年(昭和30年)70歳文化勲章受賞
中津川市名誉市民(第1号)となる
1959年(昭和34年)74歳1月,東京藝術大学日本画科主任教授を定年退職し,同大学名誉教授となる
1966年(昭和41年)81歳中津川市に青邨記念館が建設される
1967年(昭和42年)82歳法隆寺金堂壁画再現事業の総監修に安田靫彦(ゆきひこ)とともに就任
前田班は「十号大壁(薬師浄土)」「三号小壁(観音菩薩)」「十二号小壁(十一面観音)」の三面を担当し制作
1970年(昭和45年)85歳皇居新宮殿「石橋(しゃっきょう)の間」の壁画として,昭和30年に制作した「石橋」に加筆し,新たにその左右に「紅牡丹」「白牡丹」の二面を制作
1972年(昭和47年)87歳高松塚古墳壁画模写の総監督を委嘱される
1974年(昭和49年)89歳春,高松塚古墳壁画模写が完成 東京国立博物館にて内覧される
1977年(昭和52年)10月27日鎌倉で逝去(92歳)
戒名「画禅院青邨大居士」

前田青邨画伯

2012.2.13