大奥老女花園らの中津川宿間家宿泊とその後の交際
文久元年(1861)10月29日,皇女和宮が中津川宿本陣に止宿したその日,江戸城大奥老女花園は新町にて酒造業を営んでいた十八屋山半間(はざま)半兵衛家に泊まりました。花園らは伊勢神宮を公式参拝したうえで,皇女和宮を迎える幕府使者として上京し,和宮の京都発輿に随従したのでした。この宿泊を契機として,一介の商人と大奥老女らとの交際が始まったのですが,このことは身分制度の厳しい社会にあって一般的には考えられない極めて稀なケースであると思われます。
間家には大奥からの七通の書状が残されており,「木曽路ハ殊(こと)の外(ほか)とり込みニて いかふ~難き(なんぎ)致し」た道中であったが,「御前様方程(ほど) 御深切(しんせつ)ニいたし候所ハ 夫(それ)ハ~御座なく」で,「初めて御めにかゝり御泊り遊され」たところ,「御まへ様方ハ誠ニ~久々の御なしみのよふニ存じられ」「百万年も御親敷(したしき)やう」に思ったと書いてきています。
間家の心のこもったもてなしぶりがこれらの書状にこまごまと書かれているのですが,その一つを「なすからし漬」を差し上げたことにみることができます。「思(おぼ)し召(め)しより誠に御珍しき なすからし漬一桶岡の様へ御上ケ成(あげな)られ 早速御各前之通り御届ケ申し候得は ことの外~御悦びニ思し召し 誠によき御風味ニて 度々の御楽しみニ御賞酛(しょうがん)遊ばされ」た。また「木曽の櫛ほしくとの御咄(はなし) 鳥渡(ちょっと)いたし候ヘハ 夫(それ)をよふ御覚えニて 御申し付置き成られ下され 海山~有難く さて~中々御頼み申し候ても出来ぬ御事」で,その「すきくしハ誠ニこまかニてよろしく とんとあらい髪の様ニさら~(さら)と相成り ま事ニ~嬉しく存じ参らせ候」との御礼が記されています。
そして翌年(文久2年)7月,間家に「御文庫」2箱とその他,包物が江戸城より送られてきました。その中には数多くの筥迫(はこせこ)や広重の東海道五十三次の錦絵帳,御所人形などが入っていました。それらを眼のあたりにして,当主間(はざま)秀矩(ひでのり)は「花園君の御まへよりろくあまたたまはせたるよろこひを」と題した長歌を詠み,「神をとめ われにたまへる 玉手箱 あくれは老も わかやきにけり」との反歌を詠んでいます。秀矩にとっても夢のなかのできごとのように思ったのではないでしょうか。
和宮の将軍家降嫁は公武一和の実現のための切り札でありましたが,その後の王政復古へと向かっていく幕末政治体制の急変という事態のなかで,間家と大奥との交際も途切れざるをえなかったものと考えられます。